東野作品

やぎちゃんとはじめての推理小説

うだるような暑さのなか東野圭吾先生の訃報を目にした。思わず頭によぎったのは「ああ、もう新作が読めないのか」ということだった。

私が初めて東野作品を読んだのは大学時代だった。それは、とても偶然で、同じ研究室だった”やぎちゃん”がおすすめしてくれたことがきっかけだった。やぎちゃんは、通学かばんの吉田かばん(私も同じシリーズを使っていた)にいつも数冊の推理、ミステリー小説を入れていて、たまに休み時間に取り出しては読んでいた。専門書を片手に持つのがマジョリティーだった学部で、紀伊國屋のカバーを付けた小説を持ち歩く人というのは、それだけですぐ友人フラグが立つのは当然のなりゆきだった。

とは言っても、推理小説というのは、当時の私にとって未開拓の分野だった。日常をクラシックミュージカルに染め上げ、脳内は古典文学と村上&星ワールドのミルフィーユにしていたから、その言葉の響きだけでもどこか不穏な感じさえしていた。ああ、私には近づけないな。それでも、ちょっと読んでみようかとページをめくったのは、やぎちゃんのプレゼン能力の高さと彼女のトレードマークであるとびきりの笑顔のおかげだったのかもしれない。

彼女はこの未開拓分野の文学に詳しかったが、「私も今開拓中なの」と言っていろいろ読み漁っているらしかった。そして、手持ちの東野作品を全て貸してくれた。東野作品をはじめ、当時、彼女から勧めてもらった新鋭の作家からベテラン作家まで、ミステリー、サスペンス小説はどれも面白くて夢中になって読んだ記憶がある。そういえば、大学の図書館も結構イケていて、よく利用していた。規模は小さく圧倒的に専門書が多かったが、一般図書も新刊がたくさん入庫されていて、そのなかに東野作品もいくつかあった。理系的な要素を買われて入庫されたのかもしれない。院生になると、希望者は週1で図書館バイトをすることができたので、よくふらふらと一般図書のコーナーを徘徊していた。

なかなか進まない本もあるなかで、東野作品は、一度ページをめくって読み始めると最後まで一気に駆け抜けてしまう。論理的で秩序ある考察のなかに美しいいびつさが潜んでいる。いや、意図的に潜ませている。ふと小説のそでに目をとおす。どうやら作者は工学部卒の元技術者らしかった。理屈っぽい我々理系学生も黙らせてしまう理由はこれだろうと妙に納得した。見えないところまで清々しく、完璧だった。そして、巧妙なトリックの裏で描かれる登場人物たちの心の奥、もっと奥。それは、不思議な魔法などではなく、人の手作業で練り上げられた脆くて際どい想いがそのカタチを作り上げている。その脆い箇所を丁寧にほぐしていく。苦手分野だと思いこんできたはずの”秘密”の居場所を見つけたようだった。本屋、古本屋、図書館、いろいろ巡って作品を読み漁った。

吉田カバンに東野圭吾小説を入れていたあの時期に思いを馳せながら、今日は思わず書いている。これからも彼の106作品は世界中の理系学生たちを唸らせるに違いない。

ご冥福をお祈りいたします。