”死”にまつわる秩序と混乱

誰も死なない世界

新年の始まり以降、この国ではだれも死ななくなった。

この世が始まって以来初となる、死(モルト)の鮮烈な活動停止宣言。

ヨーロッパ最西端ロカ岬の夕暮れ

これは人類永劫の願い、究極の理想世界の到来だろうか。すべての生き物は、生まれた時点ですでに死ぬことが定義されている。このことを常に意識しようがそうでなかろうが、私たちはこの事実を背負って生きている。ときとしてそれを意識するとき、感情が強く揺さぶられることもある。

歓喜にわく人たちの一方で、”モルト”の不在によって国は大混乱に見舞われる。葬儀業界や病院経営者、老人ホームなど、危機に陥る人々が続出し、”モルト”で定義されてきたカトリックの根本まで揺らぎ始める。”死”がなければ”復活”もないのだから。国境の村では、マーフィアたちが、死を求める(死ねない)人々を国外に運びだすビジネスをはじめる。そう、死のない世界は、この国だけなのだ。隣国では、”モルト”は依然として存在している。責任不在でさらに大混乱に見舞われる政府対応。

リスボン大聖堂

こう考えると、現在の社会というのは、”モルト”前提の、生と死の実に絶妙な需要供給でうまい具合に成り立っていることがわかる。なんでもビジネスになるものだ。人は不可避な”モルト”を暗黙のうちに了解しながらも、ときに恐れ、”幸せ”な世界実現のためにもがいている。

誰も死なない世界は、善なのか

国中の大混乱を目の当たりにし、どうやらそう単純なことでもないらしいと感じる。そして、人は生き抜くための”慣れ”という武器を持っている。7ヶ月経ち、そろそろ”慣れ”を装備できたかというタイミングで、またもや人々に容赦ない宣告がなされる。

親愛なる各位、貴殿と、貴殿に関係するすべての方々にお知らせします。今夜午前零時以降、ふたたび人は死にはじめます。

喜ぶべきか、悲しむべきか。もはや、何が善で悪なのか。現代社会は、エビデンスやら無情な数字前提で動くことが多いが、明確に定義することが、全てにおいて必ずしも正解だとは限らない。

リスボンの裏路地

物語の具体的な地名などは出てこなかったが、やはり頭の中で想像するのは、影っぽいリスボンの裏路地とその郊外に広がるだだっ広い荒野である。なぜだかわからないが、ここに香るのは、リゾートムードのアルガルヴェ地方や、ワイナリーが集うノルテ地方ではなく、リシュボアである。ペソア文学でも感じた、街に漂う影感、哀愁が理由なのかもしれない。

しかし、この作品からは、”死”にまつわる陰鬱とした薄暗さのようなものは感じない。これが、さらっとした風刺が効くサラマーゴの作品なのだろう。

”モルト”とカトリック

物語後半は”モルト”自身に焦点が当てられる。”モルト”はこの本の装丁にも描かれているような姿である。古くからそう想像されてきた。そして、”モルト”は、これも古くからそう言われてきたように、”女性”である。

ポルトガル滞在時、カトリックの存在を強く意識する機会が多かった。確かに、土地や個人によって信仰の程度はさまざまである。敬虔なカトリック教徒であるポルトガルの友人のひとりが、カトリックの宗教的イベントの意義であったり、教会での実際の作法などを教えてくれた。とある土地では、カトリックを中心に地域住民が一体となる姿を目の当たりにした。教徒たちにとって宗教は、生まれてから死ぬまで身にまとう空気のようなものだ。それか、その人そのものである。

しかし、これまでの記事にも書いてきたとおり、私は義務教育で習った程度の知識しか持ち合わせていない(むしろ、旅中での”知ったかぶり”に役立ったのは「聖おにいさん」の読み込みによる知識である)。

ポルトガルの文学を読むとき、少し”カトリック”の存在を意識してみると、想像の助けになることもある。

ジョゼ・サラマーゴ

難解なペソアの次に手をつけたのが、この作品の著者サラマーゴだった。容赦ないタイトルに惹かれて彼の作品を手に取った。サラマーゴという作家は、ポルトガル関連の情報を見ているとよく目にする名前だ。それは、彼がポルトガル語圏で初めてノーベル文学賞を受賞した作家であることも理由のひとつではないかと思う。

読みはじめてすぐ、またもや打ちひしがれた。

、、、、うわ、読みにく

彼の文体の特徴なのだが、セリフでよく使われる鉤括弧がないのだ。会話の掛け合いなどは、もはや誰が発した言葉なのか頭が混乱してくる。”誰も死なない世界”という大混乱が巻き起こるなかでの言葉の混乱は、不測の事態。プチパニックになった。原文では、ローマ字ならではの大文字と小文字の区別さえもわざとなされず、これまた相当にややこしいことになっているらしい。

読みにくいでしょう(笑)それが彼の持ち味なんだけれど、辛くなったら次の作品読むのをおすすめするわ。読書って、楽しむための時間だから、しんどいって思ったらやめたほうがいい。

アリと読書談義をしていると、そう返ってきた。

記憶にある限りでは、読みはじめた小説を途中でやめることはしたことがない。読みにくかったり、意図しないストーリー展開にツッコミは増えるが、途中そのままにしておくのは、もっと心地が悪い。

鉤括弧皆無の文章には当初戸惑いしかなかった。アリの言っていたとおり、途中でやめるのもありかなと思いはじめた。それでも不思議なもので、物語も半ばに差し掛かるとその文体にも慣れてくる。読むのにかなり時間を費やした前半に比べ、後半はあっという間に読んでしまった。”モルト”という存在が、感情を持った”人”であるかのような振る舞いをしはじめたことに興味が持てたからかもしれない。

チェロ奏者が住んでいる場所かもしれない

アリはこうも言っていた。

彼の流れるような文章は、映画のようにも感じるの。

最後のページを読み終えたとき、ふとテロップが思い浮かんだ。

fim

ポルトガル語のendの意味

途方もない映画の世界から帰還した。