「登ってきたの?いい山でしょう。私もよく一人で散歩に出かけるんだよ。」店主が私の山の衣装を見て尋ねてきた。店主はこの土地と山に惚れ込み、家族を近くの町に残して”不便な”この土地に単身移住してきたのだと話してくれた。

店主お気に入りのレコードが並ぶ店内

「ロッククライミングで有名だから、いろんなレベルのクライマーたちが数多く訪れるんだよ。で、実際に危険な滑落事故も起きてきた。でもね、、」

僕自身が目撃したり、著名なクライマーたちに聞いたりして思うのは、やはり山に入るというのは、それなりの経験と覚悟を持って行かなきゃいけないと思うんだよ。無理はしない。驚いたんだがね、そびえたつ岩を目前に、その場でまだクライミングのマニュアル本を読んでるヤツもいるんだよ。挑戦は確かに尊いことだけれど、生死の危険が伴うその瞬間にまだマニュアル本を携えているなんてね。

店主の苦々しい口調からは、人への怒りではなく自然への敬意が感じられた。本当にこの土地が好きなんだろうなというのが、その瞳から伝わってくる。

興味を持ったものは、昔からとりあえず一通り経験するようにしてきた。楽しそうなことはやってみたいタチなんだよね。もちろん、やってみてやめたものもある。趣味が多くてね、君は好きなことやれていいねと言われてきたが、会社員時代は今のように時間に自由でなかったし、多分この場合、時間なんて問題じゃないんだよな。やりたいと思ってその先やるか、やらないか。自分次第なんだよね。だから、昨今、子どもたちに対しても、これは危ないからやめましょうとか、大人たちが一方的に制限を加えてしまっている環境が多いことには危機感があるよ。経験は尊いことだからね。この紅茶も好きが高じてね、いろいろ勉強してこうしてお店を出したんだ。

そう言うと「いけない、何を飲む?いろいろあるよ」と店主はメニューに目をやった。スタンダードな茶葉から聞いたことのない茶葉までこだわりのラインナップ。いつも感謝するのだが、漫画「紅茶王子」をなめてはいけない。私の紅茶の知識は全てここからきている。そして大概マニアックな名前とその系譜まで覚えてしまっているのだが、紅茶王子に登場しない王子(王女?)を見つけてしまった。ラプサンスーチョン。キーマンの一種で、その独特な香りに好き嫌いが分かれるものの一度ファンになるとやみつきになると言う。(気になったら調べてみてね)

店主は手招きし、茶葉のディスプレイを一つづつ見せて香りを嗅がせてくれた。茶葉の説明を加えながら、どれも可愛い我が子を見るような眼差しで見つめていた。ラプサンスーチョンも(名前に)惹かれたものの、こういうのは大概スタンダードがベターなのだと言うことを最近ようやく分かるようになってきたので(笑)、ストレートのダージリン(セカンド)をポットでお願いした。

何かお菓子はないかと尋ねると、「今チーズケーキ焼きたてだよ。」と店主。乳製品を控えているためどうしようか悩んでいると「無理しなくていいからね。」と優しい口調で返ってきたが、このジャジーな空間と紅茶にはチーズケーキが合いそうだ。お腹も空いていたのでそれもくださいとお願いした。

店主がフロアを離れると、この店を教えてくれた男性が窓をコンコンと叩く姿が見えた。「開いてたね!」と言いながらグッドのポーズをして笑顔を浮かべていた。私もグッドサインで返答した。

その後も、こだわりのダージリンとケーキをいただきながら、海外や紅茶、趣味の話、いろいろな話をした。気づかないうちに、あっという間に終バスの時間になり、名残惜しかったがまた重たいリュックを背負いあげた。

また来なさいね。」カウンター越しに店主が微笑んだ。

到着クリックを忘れていたYAMAPの山行マップを見てみると、一番長い滞在時間は、ここコルトレーンだった。