生きている街の音

乾燥した空気中に、土埃と排気ガスが混じる。色とりどりの人が行き交う景色の、そのさらにずっと奥のほうは霞んで見えない。渡航前から気にしていた衛生環境は、想像していたよりもかなり綺麗だ。滞在場所を選んでいるし、タミル全域がこの限りではないだろうが、衛生状態で絶句したのはわずか1つ、2つ程度だった。そもそも、清潔過ぎる日本と比べるのはナンセンスな気がする。昔のタミルを知るダヤ先生の話では、昨今ずいぶんと環境が整ってきたらしい。

霞で覆われた街は静かで、心地のよい風がゆっくりと流れている。巨石の合間から厳かに鳴り響く信仰の音が、私たちの心を優しく、そして力強く包み込む。多くの訪問者たちが踏みしめた石畳は丸みを帯び、裸足の足裏からそのエネルギーが伝わってくるようだ。

そして、カラフルな地上に降り立つと、途端に耳を塞ぎたくなるほどの喧騒が待ち受ける。通るよ、の合図でクラクションを鳴らす習慣は、私たちの感覚からするとややtoo muchにも感じるが、それがここでのコミュニケーションなのだろう。そして、これにはとても驚いているが、日本に帰国後、街の静けさに物足りなさを感じている自分がいる(静か過ぎる)。

あの喧騒は生きている街の音という感じがするわよね

帰国のたびにダヤ先生も感じているらしかった。これは、どちらがいいという話ではなく、その違いがとても興味深くおもしろい。あの鬱陶しくなるほどの喧騒も意外と慣れるもので、恋しくまでなるのだということも。

そして、愛しく感じるものがもう一つ。

目に入る景色が人工的過ぎないこと。先述の排ガスの話と対をなすようだが、これは身に纏ったり飾ったり、生活空間の話。人々はコットンやシルクの衣服で、髪に生花を飾る。生活空間には木や石が多く使われていて心地よい。この心地よい感覚はヨーロッパにいるときにも感じることが多い(そういう滞在先を選んでいるのかも)。日本ではあまりにも多くのものが人工的な美しさで覆われ、その多くがシングルユースである。過剰なまでの潔癖さで衛生環境は劇的に向上し、多大な恩恵を受けているのは紛れもない事実だが、それもまたtoo muchで、その環境に疲弊する人も増えてきているのも確かだろう。つぎはぎ、足し算的な美しさはやがて限界を迎え、はりぼての部分が剥がれはじめている。

道ゆく人も、わかりやすいブランドものを身につけたり、それを自慢したりするような人を見かけない。そういう”バッジ”で着飾ったりジャッジしたりすることに、なんら価値を見出していないようにすら感じる。話しかければフレンドリーだが、そこには相手へのリスペクトと丁寧な距離感がある。SNSでよく話題にされているビジネスの中心地、インド北部の大きな街に行けば全く事情は違うのだろうが、タミルの小さな村々で感じたのは、そういう素朴な美しさだった。