つらつらと思いつくまま記してみる。こんなタイトルを書いたが、誤解のないよう、「まだ隠遁生活に入るつもりは毛頭もない」と付け加えておく。

パリピと哲学者の考察

ジョギングと音楽

ここ最近、ジョギングに音楽を持ち出すのをやめてみた。骨伝導イヤフォンほかジョギンググッズには、少なからずお金と時間を投じてきた。自宅界隈の単調な景色には、スパイスが必須だった。

音楽なしで走ってみる。

当たり前だが、車の音や、人の声、そして、走るときの砂利や土の音、風になびく植物の微かな音までも鮮明に聞こえてくる。そして、どこからともなく香ってくる草木の香り。今は、あぜ道に咲くシロツメクサの香りが強い。そしてその周りには、オレンジやピンクの小さな花が咲いている。

普段なら何も思わず通り過ぎてしまう景色のなかにそっと腰をおろしてみる。そこに生えている草木は今年咲いたものだが、どこか親しみを感じている。見覚えがあるその花は、幼いころに摘んで眺めていたものだった。

映らない時間

最近はどこにでもスマホを持っていく。どこでも取り出し、とりあえず記録に残しておく。あとから見返して懐かしくなることも多いが、他者からの共感を呼ぶためだけの”映え”た写真も存在している。

心の底から楽しんでその空間に夢中になっているときほど、撮るのも忘れて写真が残っていない。そんな記憶をたどるときほど笑がこぼれる瞬間はない。記録がないことで詳細は抜け落ちているのだが、そのときの心情は自分だけのものだ。

広告の仕事は好きだし、興味もある。ただ、日常生活は仕事ではない。他者の反応を意識してひたすらに共感を求める姿勢はどこか興醒めしてしまう。

そんなわけでジョギング中の写真はない。無地でも良いが、とりあえずいつぞやの上高地散策の写真をキャッチにしておく。

映らない時間こそ、清らかに過ごしたい。

パリピと哲学者

スマホを持たず、いつもより身軽なジョギングはいろいろと考える。大好きな音楽がないと尚更。

どこか遠くの地へ飛び立って新しい景色や人に出会うのも刺激的で好きだが、同時に、「ステイホーム」などと言われなくても永遠に引きこもることも苦痛ではない。

皆もそうなのかは知らないが、自身を見つめなおすとき、内向的なコアに外向的な衣が被せてある自身をイメージする(たまに夏服になる)。気分屋なのか二重人格なのか、単に子どもじみているだけなのか、自分でもよくわからない。

出会ったタイミングによって、イメージが違うと言われることがある。ふらりと海外や地方に飛び立ってしまうのも、家に引きこもってひたすら内省するのも自分なのだ。どちらも偽りではない。たまたまそういうタイミングで出会っただけの話。

いつも活動的だよね。次はどこ行くの?

年配の人みたいなスローライフしてるね。

先日友人に言われ、どちらが自分なのかと再考するが、やはりどちらも自分なのだ。

パリピと哲学者が、xyz軸の存在しない脳内アゴラで対話している。

自身のことでさえこうなのだから、他者をきっちりと理解して分類できるなんて考えは捨てたほうがいい。カテゴライズが無意味だと言っているのには、こういうことも関係している。

そんなわけのわからない人同士が出会うのは、未知の化学反応。なんか、おもしろそうじゃないの。哲学者の後ろでパリピが意見する。ライフをスローにするといろんな声が聞こえてくる。

そんな途方もない会話に耳を傾けて、家に戻る。そして、引きこもって動かず生活習慣病予防できるものないかしら、なんて怠惰なことを考えながら、またいつものように音楽を聴き始めた。