文をつづる

文通コミュニケーション

SNSが発達し、人と人が簡単に繋がれる便利なアプリもたくさん存在している。何事もそうだけれど、いい面と悪い点があって、正直なところ、子どもの頃にはああいうものが身近になくて良かったなと思っている。あったらあったで適度に活用して楽しんでいるのかもしれないが。上手く使えばとても便利で楽しいもので、否定派ではない。

小中学生の頃、学校の先生だった両親のすすめもあって、他地域で行われる夏休みのサマースクールによく通っていた。そこで行われるイベントは屋内のものから野外での活動までさまざまで、学校や地域を超えて多くの友人、知人ができた。日帰りのものもあったし、泊まりのものもあった。普段属している学校生活の小さなコミュニティーを抜け出すと、そこはとても広く感じたし、出会う人たちの雰囲気もどこかとてもリラックスしていて、子どもながらに居心地のよさを感じていた。思えば、今の旅の原点なのかもしれない。

そんなわけで、旧友や、サマースクールで知り合った友人たちとは、社会人になる頃まで文通でコミュニケーションをとっていた。もともと文章を書くのが好きだったので、結構まめにやりとりをしていたように思う。たまに、手紙とともに小物を同封してプレゼント交換をした。まだ100均が身近になかった時代、友人たちを思い浮かべながらとっておきのレターセットを見つけに行くのも楽しかった。そう思うと、”時代は変わった”と、老人のような言葉を口にしてしまいそうになる。どこか忙しなくてキラキラ、ガチャガチャしていた90年代が好みなわけではないが、当時親しんでいたものを目にするとき、ふとのみこまれるノスタルジック。

少し不便なアナログ、まだどこか人の温かさを感じる言葉のやりとり。そういうのが結構好きなのだ。

私のペンパル

イギリス滞在中に出会った文通相手がいる。”出会った”とは言っても、ほどなくして私は帰国して、実際に会ったわけではない。そんな文通相手(彼、彼女、呼び方は何でもいいが、星新一っぽくN氏としよう)とは、当初から手紙のような長文でやりとりをしている。チャットでの短いメッセージが主流になって久しく、長文やりとりに関してもいろいろ言われているが、これまでに手紙、Eメールと満喫してきて、その楽しさはなかなか手放せない。じっくり時間をかけて考えながら、相手を思い浮かべて文章を綴っていく。テンポのよい要点のみの短文はビジネスだけでいい。

初めてN氏の文章を目にしたとき、その文学的で哲学的な文章に魅了された。他国の言葉で書かれるそのニュアンスは、日本語で書かれる場合に比べてかなり分かりづらく、それが語学学習のひとつのモチベーションにもなっているのだが、N氏は英国的皮肉をどっぷり効かせ、美しく書き上げていた(N氏と名付けたのにはこういう理由がある)。聞けば、本業ではないが、定期的に短編を書いていて将来は出版を考えているとのこと。なるほど。

N氏とは、お互いの近況報告はもちろん、政治や宗教、国際情勢、哲学、文学、映画など、とても文化的な交流を楽しんでいる。育ってきた国が違うからこそ、価値観や文化の違いを炙り出す楽しさがある。実際にN氏に勧めてもらった小説、映画、ドラマなどすべて”あたり”だった。お互い好みのジャンルは違うので、自分だけではきっと出会わなかった作品たちだ。日本作品も逆輸入的に教えてもらうこともある。相手が日本人、外国人など国籍はどこであっても、実際の国際交流会やミートアップも好きだが、文字で綴るからこその奥ゆかしさや気遣い、余韻、ゆったりと反芻しながら読めるこの文章のやりとりは性に合っている。

会える日は来るのか、どうなのか。たまにそういう話題にもなるが、ま、流れにまかせましょうと、そこもまたお互いゆるっと構えているのが心地よい。愛しのペンパル、N氏。