雨で肌寒く、あたりにはモヤがかかっています。晴れの中尊寺も見てみたいなあ。

中尊寺金色堂

奥州藤原氏の栄華を伝える建物が中尊寺の金色堂。中尊寺は、初代清衡が浄土世界の精神的な中核として最初に造営した寺院で、金色堂は国宝です。

讃衡蔵

讃衡蔵は、奥州藤原氏ゆかりの国宝や重要文化財など3000点を超す至宝を収蔵する宝物館です。平安期の諸仏、中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などもここに納められています。金色堂へは、この讃衡蔵から繋がっており、そのまま向かうことができます。

入り口には窓口以外に、自動券売機も設置されており、各種電子マネー使用可能!便利ですね。

宝物館とあって、”すごい”、”美しい”と(たとえ価値がわからなくとも)ため息の出るようなものばかりです。

なかでも、中尊寺経と称される「紺氏金字一切経」、「紺氏金銀字交書一切経」。濃紺の背景に金色でお経と仏様がエッチング風に描かれており、本当に美しくて見入ってしまいました。比べられるものではありませんが、遠目から見ると、明治、大正期に出版されたハードカバー装丁のような色味です。

中尊寺経は国宝で、藤原氏三代が中尊寺に奉納した供養教ですが、寺外に流出したものが多いと言われています。ちなみに、一切経とは、お釈迦様の教説や戒律、注釈などを含む経典の総称のようです。その膨大な経典を宋などから入手していたことからも、平泉の経済力と文化水準の高さが伺えます。

金色堂の衝撃

金色堂は、中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建造物で、堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂です。

「中尊寺金色堂」と聞いて、どのような外観を思い浮かべるでしょうか。

芭蕉”奥の細道”の有名な句の舞台はここ「平泉」

私は、金色堂の文字が彫られた石柱を前にし、こう思ったわけです。

あれ?金色堂ないやん?

どういうことかと言うと、宇治の平等院を想像していたわけです。平泉の広大な敷地に燦々と輝く、奥州藤原氏の築いた金ピカ堂を

讃衡蔵に入ってもまだ、信じていました。貴重なものだから、宝物館の裏庭に隠されるようにして建立されているのだろうと。

中尊寺はトレランシュー推奨(笑)

そして、明かされる金色堂の真実。モナリザ対面の衝撃を思い出しました。

金色堂!
ショーケースに入ってるやん!
芸術作品やん!

あまりの衝撃にしばらく呆然としていましたが、現実を受け入れてご対面。

金ピカの内部を見ると実に複雑な装飾でした。白く光る夜光貝の螺鈿細工、透かし彫り金具・漆蒔絵、平安時代後期最高の工芸技術が駆使されているようです。なかでも、この夜行貝の美しさには見惚れてしまいました。

中央の須弥壇の中には、初代清衡、二代基衡、三代秀衡の御遺体と四代泰衡の首級が安置されているそうです。

これは、のちに中尊寺の砕石ご住職から伺った話です。

”金色堂”と聞いて、皆さん実にいろんな想像をして来訪されるんですよ。あなたのようなパターンのほかに、手のひらサイズのミニチュアのようなものを想像して参拝される方もいらっしゃいました。

もうここに書いてしまいましたが、まだ来訪されていない方のために真実は黙っておいたほうがよかったかな(笑)なによりまず、実物を見てみることをおすすめします。

旧覆堂

金色堂のすぐ近くにあるお堂です。金色堂を風雪から護るために、もともとは鎌倉幕府によって建てられた(現在のものは室町時代のものらしい)と伝えられています。当然、金色堂は、もとからショーケースに入っていたわけではなく、金色堂解体修理(昭和の大修理)の際に現在の場所に移築されたそうです。

松尾芭蕉や伊達政宗、明治天皇といった歴史上の人物は、薄暗いこの堂内で金色堂を参拝したそうです。雨でさらに薄暗く、湿気た空間でしたが、経年した木に囲まれた内部は味わい深く感じました。

滋賀の十一面観音さん拝観の際にも感じましたが、歴史を”そのままのかたちで”というのは本当に難しいですね。歴史的価値のある姿をできる限り長く残せるようにと、保全作業に尽力されていらっしゃる方に感謝しないと。

歴史上の建築や品物を見るとき、ついつい完成当時のままを見てみたいと思ってしまいますが、経年して残る姿から当時を想像するほうが乙な感じもします。歴史はそう、兵どもが夢のあと。夏草の季節にまた来たいですね。